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nokoの雑記帳  あれこれつれづれ

「ぼけと利他」を読みました。 #今日は本曜日⑥

ぼけと利他

 

この本のなかで「利他」は、「自分のしたことが相手のためになる」ということを指し示す言葉。 

 

はじめにより

「ぼけ」という言葉は一般的には「認知症」と呼ばれる現象のこと。加齢とともに現れる自然な変化でそれを病気扱いするのは、生まれてきた赤ちゃんに「歩けないならリハビリしましょう」というくらい変なことだと。 「病気ではない正常なこと」というニュアンスを込めて本書のなかでは「認知症」ではなく「ぼけ」という言葉を使っている。 利他を生む行為も、自分の利益が最大化するように計画的に振る舞う態度とは真逆だという意味では本質的にはどこか「とぼけた」ものかもしれない。 ぼけを通じて利他を利他を通じてぼけを考える。

 

 

大学で「利他について考える研究プロジェクト」をたちあげた伊藤亜紗さんと福岡の「宅老所よりあい」代表の村瀨孝生さんの往復書簡が、東京でのトークショーをきっかけに始まります。

 

トークショーで思い通りにならない数々の想定外を「老人性アメイジング」と呼んで楽しそうに語る村瀨さんを伊藤さんは忘れられなかったといいいます。

 

往復書簡のなかでは「荒ぶるぼけのある人」と「荒ぶりのないぼけの人」への介護の違いやその時の自分たちの心の持ちようを言葉にしています。 そこには「抗い」「もやもや」「葛藤」「わからない」「これでいいのか」「これでいいよね」様々な感情のループがあります。 それをなんとかしたいと思うところを「それを手放さないことが大切なのかなぁ」と感じている村瀨さん。 不安定であり続けることで安定が孕(はら)まれるように感じている。

 

 

時間と空間の概念を失い、記憶が朧げになるということは、過去から現在を経て未来に向かう時間のベクトルを失うこと。 明日への備えができず、今、どうすべきかがわからなくなる。 過去からは、様々な年代の自分が立ち上がってくる。 立ち位置を失い自分が溶け出していく。 その恐ろしさはいかばかりのものか。 ぼけが荒ぶる背景にはこのような恐怖が潜んでいるように感じる。 けれどその混乱の中には未来にたいする憂いや過去に刻まれた呪縛からの解放がある。そこに深い安らぎがあるように思えるのです。 深いぼけを抱えたお年寄りを介護するとき、心と体がホッと安堵する時がある。「いま・ここ」を生きる体をケアすることでケアする者も「いま・ここ」を生きることができる。 そのことが安寧を生むのではないのでしょうか。

 

おなじ生活線上にあることで「恐ろしさを」感じることが減ると思えるのかもしれません。

 

介護の世界では過剰な「思える」ではなく、過剰な「思い」を持っている人が少なくない。「思い」と「思える」の違いはとても深いものです。

 

お二人の書簡の中にそういう着眼点があるのか、とにかく現場の言葉の数々に揺れ動き、お二人の言葉のキャッチボールの何球かを受け取りたくて読み進みました。

 

おしゃべりボランティアで「荒ぶるぼけのある人とそうでもない人」に接することもあってワタシの心が荒ぶることもあったりで、、、

 

「おわりに」では「考えることをいったん手放す」と書いてある。 

 

それも大事なことだと「思える」。 

思えることでゆとりが生まれていくのでしょう。

 

 

なんとも不思議なタイトルの本ですが、

出合うべくして出会った本だと思えた本でした。

 

 

そして今朝のしだれ桜。

これはもう満開宣言ですね♪